1978年、名古屋市生まれ。約8,000字。
事故・拒食・鬱・不登校・2浪——。
明治学院大学法学部を卒業後、大学院進学を希望するも生活費が必要となり、河合塾の講師になる。想像以上に楽しく没頭し、みんなに支えられて、気がつけば20年以上になっていた。
幼稚園のお遊戯会で台詞を覚えられず、「自分は暗記が苦手」をうっすら認識する。新小1の3月に右頭蓋骨陥没骨折で生死を彷徨う。家族のおかげで助かった。のちに「ここで自分は一度死んだ。だから、自分の救われた命を、人のために使おう」と決意する。
「頭の傷が完治するまでは運動を避けるべき」という医者の言葉で、ファミコンを始める。学校を休んでゲームをするほどになり、勉強は全くやらず。実家は会社を経営していた。1人の時間が長く、寂しかったので猫を飼う。朝から晩まで親がいなかったことも手伝い、勉強習慣どころか生活習慣も身につかなかった。
テスト勉強のやり方が分からない。というか、暗記とはどういうものなのか。ゲームは職人的なもので体で覚えていたから、そうでないものを「覚える」の意味がわからなかった。教科書を3行くらい読んで、何をすることが勉強なのかが分からないまま、テスト勉強を終える。
小5か小6の時、算数の授業で「100×100=100万」と答えて、友達をやめると言う人たちが数人出現。小6時点で九九が全部言えないことがヤバいことだと気づく。
それでも、小3からやっていたボーイスカウトに随分と救われた。小6の夏休み、友人が中学受験に誘ってくれた(記憶が曖昧だが、こんなに頭悪い僕に声を掛けてくれたことが嬉しかった)。
小6の10月から塾探し。こんな輩を受け入れてくれる塾はなかなか見つからなかったが、とある塾がお情けで特別に入れてくれた。月火水は塾に3〜4時間、木金土日は家庭教師に3時間。小6で九九、分数の足し算から勉強を始めた。
11月、初めての模試。算数。100点中4点。
このときの経験が予備校講師として生きてくる——字は大きく書く。字を薄く書かない。間違えることを恥ずかしがらない。言い訳できるようになんとなく曖昧な字を書かない。
両親や先生方の尽力のおかげで、成績はどんどん上がっていく。1月には算数の模試の過去問で70点くらいまで上がった。しかし世の中はそんなに甘くはない。中学受験は全部失敗。でも4ヶ月間1日も休まず勉強したことが自信になった。ここで初めて、勉強の仕方をちょっとだけ知る。
中学生になる。最初のテストで300〜400人中7番(だったはず)。小学校では最下位の経験を数回していた自分からしたら、まあ、がんばった。中1の頃から河合塾に通う。
中1の7月、親の知り合いの国際結婚式のためイタリアのコセンツァへ。その後ドイツにも行く。一面のオリーブ畑、地中海性気候、まるでドラクエのような村に感動し、イタリアに惚れる。
小学校高学年で初めて手にしたCDは4枚組の「世界の名曲アルバム」。エリック・サティに惹かれていたが、このイタリア旅行後、映画「アマデウス」の影響も重なって、ヴィヴァルディ、パガニーニなどイタリア作曲家を聴くようになる。中2は専らバッハ。「目覚めよ、と呼ぶ声が聞こえ」を聞きながら、よく猫と寝ていた。
中3で生徒会長もやる。このときのラルフローレンへの傾倒と、河合塾の先生たちからの影響が大きかった。高校受験、模試はすべてA判定。しかし第一志望に受からず。試験になると我を忘れ、いつもの我流に戻ってしまう。練習が足りなかった。
あまりの悔しさに高1で勉強に没頭する。河合塾の玉置全人先生(私の師匠)の講義を受けて、ただただ感動した。高校1年生。学年1位を取り続ける。東大を目指そうと決意。毎晩マイケル・スワンを愛読。
ここからが地獄の始まり。「人5倍やって、ちょうど人並み程度。だから、僕の5時間は他の人の1時間」と言い聞かせて、睡眠時間を減らし始める。
高1でマックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義』、フィリップ・アリエス『〈子供〉の誕生』、イヴァン・イリッチ『脱学校の社会』などを読み、精神の官僚化を意識。高1、2の夏はロンドン・ウィンブルドン・ミュンヘン旅行、高2はイギリス・オックスフォードの語学学校に1ヶ月。オペラ『椿姫』に心酔し、親のクレジットカードでローマ歌劇場の1枚5万円のS席を2枚取った(引き落としの日まで黙っていてごめんなさい)。
食べると眠たくなるから勉強時間を増やすために食事を拒否。高2、3で激ヤセする。その後、鬱。そして不登校。僕のことを理解しようとしてくれていた友人たち、先生、周りの人、全員を傷つけて高校生活を終える。謝っても謝りきれない。
センター間近で交通事故に遭い、緊張の糸が完全に切れる。センター試験、英語196点(浪人のときも196点。本番ではなぜか満点にならない)。他の科目は失敗。大学受験失敗。
浪人。1日10時間を目標に勉強。人生でもっとも規則正しく生活していた時期。しかしここでも教訓が活かせない。得意科目で勝負しなければならないと思い、英語にこだわりすぎて科目バランスが崩れる。また懲りずに自分を追い込む。いろいろ病気が重なる。とくに神経性胃腸炎に苦しむ。いくつかの大学に受かるも、第1志望は不合格。
2浪最初の模試、偏差値80を超えるが——なぜ本番で結果が出ないのか。勉強の意味が見出せなくなる。自分の能力のなさに嫌気がさす。「"試験"というものに向いていない」。
ほんの少しの期間だけだが父親の工場で働き、受験を辞めて働くか悩む。精神的に落ち着きたかった。茶道(裏千家)を冬点前までなんとなくかじる。裏千家の学校に行こうかと考える。
1998〜99年頃、NYに住んでいた友人からコロンビア大学のAmerican Language Programを勧められ真剣に検討。実際にNYに行きハーレムのキャンパスまでパンフレットをもらいに行った。しかし9.11のテロで状況が変わってしまった。
早慶は補欠。「お情けで行くくらいなら大学名には頼りたくない」と意味不明なことを言い張り(どこまで反抗期をこじらせていただけ)、当時アルフィーが好きだったという理由でなんとなく受験した明治学院大学法学部法律学科へ進学、卒業。
同じ過ちで苦しむ。何も学んでいなかった。——司法試験を目指して勉強する。また自分を追い込み始め、同じ過ちを繰り返す。ストレスで原因不明の熱が出る。入院。いわゆる受験勉強に嫌気がさしていたこの頃、ちょこちょこ通っていた内科の先生から「"試験"というものに向いていないんだよ」という助言。
そうだった。そのはずだった。いったいどこで忘れたのだろう。大学3年。将来のことは考えず、好きなことを好きなだけ勉強し始める。ヨウジヤマモトとコムデギャルソンに心酔。フランス文学のN先生の「人生は捨身だよ」という言葉は一生忘れない。能狂言、美学・舞踊美学。東大や芸大の複数の研究会に参加。政治社会学(動員史観)にどハマり。宮台真司、上野千鶴子に驚愕したのもこの時期。
大学院に行きたかったが資金不足で断念。河合塾講師になるか、能楽堂で就職するか毎日悩んだ。毎日、新聞の求人広告と国立能楽堂のホームページを行ったり来たりしていた。
自分の人生の転機になった河合塾で働いてみたくなり、河合塾高校受験コースの講師になる。勉強はダメだが、体を動かして実際に教えるのは得意なのだと気づく。結局は頭脳的習得ではなく、職人的身体的習得が得意なのだと納得し始める。
「捨身の行いをするによって……」。身体の限界までやってやると決意した。これで失敗すればどうせ「死」しか待っていない。だったら、やりすぎで死んだほうがマシ。尋常じゃないほどに腹を括った。
中3アルファコース、2年目で教室が満員になり締め切り、クラスの増設。初めて担当した講座は、基本的には1年目からほぼ毎回締め切ることができた。その後「河合塾美術研究所」「東大現役進学教室MEPLO」「高校グリーンコース」「大学受験科」「マナビス」を担当。
27歳、他の予備校も掛け持ち、睡眠を削り週7日働く。360日前後働く。とあるバーにも360日くらい通った。マスターからお酒とバーの作法を習う。ここでの出会いもまた素晴らしかった。しかし働きすぎて病気のオンパレード。帯状疱疹、急性気管支炎、蕁麻疹、過呼吸、肋間神経痛。しかし高校のときのように鬱にはならなかった。このとき「講師は天職かも?」と思い始める。
28〜29歳、名古屋と東京を行ったり来たりしながら映像授業のマナビスが始まる。「ここから始める高校英語」で映像デビュー。頑張ったことが評価される環境があるというのは、本当に奇跡的なことだと今でも思う。またまたバーのマスターに支えられる。やはり僕の人生にはバーテンダーが必要なようだ。このバーで、人生を最高に加速させる出会いが押し寄せる。
びっくりするようなことがいろいろありました。普通に生活していたら会えないだろうな、という方々にも会えた。いつも刺激をもらっています。
30歳代は新たな仕事の方向性、新しい出会い(とくに地方講演)、自分の結婚などもありました。悩み多き10年でもありましたが、それと同時にまた飛躍する10年ともなりました。
このように20〜30年くらいかけて自分で自分を実験してきました。たとえ何回失敗しても、その都度向き合って改善していくことをやめなければ、暫定的かもしれないけれど、なにかしらの解決策が見えてくるはず。
有難いことに、みなさんに評価をしていただける講師になりました。しかし、まだまだありえないほどに勉強不足です。さらに勉強して、皆さんにとって価値あるものを提供していきたいと思います。
— あと6万字くらい書きたいのですが、それはまた別の機会に。